超主観空間 / Ultrasubjective Space

2001

身体がある世界と作品世界との境界がない平面

写真や実写の映像、西洋のパースペクティブによる絵画など、レンズやパースペクティブによって次元化された空間は、鑑賞者の身体がある世界から見て、その写真や絵画の平面を境界とした向こう側に広がる。つまり、対象の3次元空間が2次元化された写真や実写、パースペクティブによる絵画は、その平面が、鑑賞者の身体がある世界と、レンズやパースペクティブで切り取られた世界との境界となる。

近代以前の東アジアの古典絵画は、一般的に観念的だとか平面的だと言われているが、その絵画、レンズや西洋のパースペクティブとは違った論理構造によって2次元化された空間だったのではないかと考えている。そして、その論理構造で2次元化された絵画の平面は、絵画が表す世界と鑑賞者の身体がある世界との間に境界が生まれない平面ではないかと考えた。

チームラボは、デジタルという新たな方法論によって、その論理構造を模索した。具体的には、コンピュータ上に3次元で作品空間を作り、古典絵画の平面に見えるような3次元空間の2次元化の論理構造を探した。もっと言うと、鑑賞者の身体がある世界と、平面が表す世界との間に論理的には境界が生まれない(自分の身体と、見ている作品世界との間に境界が生まれない)次元化の論理構造を探した。そして、その論理構造による平面は、論理的に、視点が移動でき、分割や統合、もしくは折ることができることを発見した。

この作品空間と、鑑賞者の肉体がある世界との境界を生まない平面になるように、前述の論理構造に基づいて2次元化された空間を超主観空間と名付けた。

視点が移動できるということは、鑑賞者の身体を止めることなく、自由にし、作品世界を身体で認識することができることを意味する。超主観空間による平面が分割できるということは、作品の平面の全体を見て、作品世界の全体を見ることも、ある一部分だけを凝視してその部分だけの作品世界を見ることもできるということだ。言い換えるならば、同じ作品の平面に対して、複数の鑑賞者が自由にそれぞれの位置から、自分を中心にして部分的に作品の平面を見て、作品世界に入ることができるということだ。さらに、超主観空間による平面を統合できるということは、作品間の境界をなくし、異なる作品空間を平面上で自由に統合し、新たな作品空間を自由につくることができる。そして、超主観空間の平面が折れるということは、作品の展示空間を自由にすることができる――こうした考えが生まれてきた。(図1、図2)。

図1(左) :3次元空間上に立体的に構築した作品世界を、西洋の遠近法によって次元化した空間(『花と屍 剝落 十二幅対 繁栄と厄災』より)
図2(右):図1と同じ3次元空間を「超主観空間」の論理構造によって2次元化した空間(『花と屍 剝落 十二幅対 繁栄と厄災』より)

図2(右):同上

東アジアの古典絵画のように世界が見えていた

レンズによる写真や西洋の遠近法で描かれた絵(図3)を簡略化すると、撮影者や描き手の視点(図4、青い人型)を原点として、扇状の空間が見ていることになり、その空間が2次元化されている(図4)。そして、鑑賞者は描き手の視点で世界を見ていることになる。
さて、人々が東アジアの古典絵画(図5)のように世界が見えていたと仮定し、描き手を図6の青い人型とすると、図6の水色の部分が見えていることになる。

このように世界が見えるはずがないと思うだろうが、そもそも肉体の目が瞬間的に見える範囲は、自分が認識しているよりも、極めて狭く、フォーカスは極めて浅い。
ではなぜ、もっと広く空間が見えているつもりでいるのか?
人間には時間軸があり、眼球を動かすことができるし、目のフォーカスも動かしている。狭くて浅いフォーカスで得た多くのイメージを脳で合成し、空間を見ているのだ。つまり、空間を見るということは、ある程度過去までさかのぼった狭く浅い部分的な空間を2次元化した平面の集合を論理的に再構築して脳に空間を作り上げているとも言える。そして、肉体で認識した空間とは、レンズで空間全体を捉えた時の部分よりもずっと拡大された部分の集合の再構築であり、集合である以上そこには時間の概念が含まれる。
現代の人々は、写真や動画などレンズで切り取った世界を常に見ているため、写真や動画などレンズによって2次元化された平面に違和感がないかも知れないが、人は首を振るし、移動もする。合成(再構築)に使うために過去にさかのぼる時間は増えるかもしれないが、レンズや遠近法とは違った論理構造で脳内において合成していたと思えば、図6のように世界を認識していたとしても、不思議ではない。

図3(左):モナ・リザ[© RMN-Grand Palais (musee du Louvre) / Michel Urtado / distributed by AMF-DNPartcom]
図4
図5(右):法然上人行状絵図( 知恩院蔵)
図6

絵を見ながら、絵の中に入り込める

写真や西洋の遠近法による絵画を見ているとき、その絵の中の人物(図7、赤い人型)になりきると、見える風景は変わる。正面を向いた肖像画の人物になりきれば、鑑賞者がいる世界が見えることになる(図7、ピンク色の部分)。
図8のように世界が見えていたと仮定する。鑑賞者は絵画を見て、同時に絵の中の人物(図9、赤い人型)になりきると、図9のピンク色の部分が見えている部分になる。つまり、絵の中の人物に見えている風景は、絵とほとんど変わらないことになる(図9)。絵を見ながら、絵の中の人物になりきったとしても、見えている世界は絵と同じため、そのまま同じその絵を見続けることができる。つまり「絵を見ながら、絵の中に入り込む」ことができ、鑑賞者は鑑賞者のまま絵の中を自由に動き回ることができるのである。

図7(左)、図8(中央)、図9(右)

鑑賞者中心に鑑賞できる

カメラで対象物の近くに寄って撮った写真をつなぎ合わせてひとつの全体写真をつくったとする(図10)。しかし、それはカメラで遠くから対象物全体を写した写真(図11)とは別のものになってしまう。レンズや西洋の遠近法では、近くの視点での(対象の空間のごく一部が写っている)平面をいくつかつなぎ合わせて(図10)、遠くの視点で空間全体を撮った(空間全体が写っている)平面(図11)を作ることはできない。
「超主観空間」では、空間の部分部分を超主観空間の論理構造で2次元化した平面をつなぎ合わせた平面(図12)と、その空間全体を超主観空間の論理構造で2次元化した平面(図13)は、論理的に同等になる。それは「自由な位置で鑑賞者中心に鑑賞できる」ことを意味する。つまり、ある絵画を、絵画全体を見える位置から見ているときには、その絵画が表している空間全体の中に鑑賞者たる自分もいることになるだろうし、絵画に近付いて、絵画の一部しか見えない位置から凝視すれば、その凝視している絵画の部分が表している空間の中にいることにもなりうる(図12)。縦横無尽に好きな場所から絵を鑑賞できるということである。そして、それは「視点が限定されず、視点の移動が自由」であることを意味する(図13)。
古典絵画の絵巻やふすま絵は、こうした特性によって生まれたのではないかと考えている。絵巻は、机の上などに置いて、左手で新しい場面を繰り広げ、右手で巻き込んでいきながら、自由にスクロールしつつ見ていく。つまり、超横長の絵を好きなように部分で切り取って見ているともいえる。そして、ふすま絵は、動くことが前提のキャンバスの上に描いている。

図10:レンズや遠近法で空間の一部を2次元化した平面をつなぎ合わせた平面
図11:レンズや遠近法で空間全体を2次元化した平面
図12:「超主観空間」で空間の一部を2次元化した平面をつなぎ合わせた平面
図13:「超主観空間」で空間全体を2次元化した平面

折ったり、分割したり、つなぎあわせたり

また、「超主観空間」による平面は、自由に「分割」できることを意味する。分割した絵画を見れば、その部分が表している空間の中にいることになるからである。分割できるということは「超主観空間」によるの平面を「折る」ことも可能にする。写真や、遠近法の絵画を「折ったり、分割したり」するなんてありえないが、古典美術の屏風は、折る前提のキャンバスであり、ふすま絵は、分割することが前提のキャンバスとも言える。
そして、空間の部分を細かく超主観空間の論理構造で2次元化した平面をつなぎ合わせた平面と、空間全体を超主観空間の論理構造で2次元化した平面は同等になるということは、超主観空間の平面を自由につなぎ合わせる(統合する)ことができることを意味する。つまり、異なる作品空間を平面上で自由に統合し、新たな作品空間を自由につくることができるのだ。

自分と世界との境界がない

世界の見え方と世界に対するふるまいとの間には関係があり、人々の世界の見え方が、人々の世界に対するふるまいに大きな影響を与えている可能性があると考えている。

写真のように世界を見ているときは、見えている世界の中の人になりきったり、見えている世界の中に自分がいたりすることはできない。

現代の人々は、写真や実写の映像などレンズで切り取った世界を常に見ているため、人々は、写真のように世界が見えている可能性がある。人々がレンズのように世界を見るならば、自分と、自分が見えている世界が完全に切り分かれ、はっきりとした境界ができ、自分が見えている世界に自分は存在できない。それゆえに、人々は世界を、自分がいる場所とは違う世界であるかのようにふるまってしまうのではないだろうか。

「超主観空間」で世界を見るならば、自分が見えている世界と、見えている世界の中にいる人が見えている世界はほとんど変わらないことになる。つまり、自分が見えている世界の中にいる人になりきることが容易だったり、自分が見えている世界の中に自分がいるかのような感覚を感じやすかったりするということだ。自分と世界との境界が曖昧になり、自分が世界の一部であるかのような認識をするかもしれないのだ。