人物は、身体の輪郭によって描かれるのではない。
人が動くとき、空気など周囲の環境も動く。人は生きている限り、世界へエネルギーを散逸し、周囲の環境を動かし続けている。本作は、人物そのものの物質的な境界面を描かず、人が世界へ与え続けるエネルギーと、そこから生じる環境の動きによって、人物の存在を描く。
生命の存在の輪郭は、肉体の境界面ではなく、身体と連続する環境も含めた、曖昧なものである。人は、呼吸し、動き、熱を発し、空気を揺らし、周囲へエネルギーを散逸し続ける。私という存在は、身体と、その身体と連続する環境である。
鑑賞者が作品の前を通るとき、鑑賞者自身もまた、周囲の環境を動かす。その動きは、描かれた人物がいる空間と同一の空間で起きる。描かれた人物の動きと、鑑賞者の動きは、同じエネルギーの流れの中で混ざり合い、人物を描く線は、鑑賞者の動きによって乱れ、変化していく。
人物画は、描かれた人を外から見るための像ではなく、描かれる人と見る人が同じ環境の中で連続する場となる。
石ころのような物体は、外界から遮断された閉じた箱の中に入れても存在し続ける。しかし生命は、そのような閉じた箱の中では存在を維持できない。生命は、外部から食物として物質とエネルギーを取り込み、物質を排出し、エネルギーを外へ散逸させながら、その構造を維持し続ける。
生命は、海に生まれる渦のように、流れの中にある存在であり、その存在の境界は曖昧で、無限の連続の中の存在である。
生きているということは、世界へエネルギーを散逸し続け、世界と連続する、開いた存在であるということだ。